ようこそ、LIMBOへ。

セーモンジゴロー♪て気だるい歌を聞いたことがある人は、沢山いらっしゃることと思います。邦題は「私のジゴロ」ドイツでも、流行ったんだぜ。恐慌後に。「グランドホテル」の、ちょっとだけ後の話です。

で、「ジャスト・ア・ジゴロ」って映画があるのです。「私のジゴロ」が英語で流れます。デヴィッド・ボウイが出てるやつ。こちらはグランドホテルと、ほぼ同じ時代の同じ町が舞台です。ボウイが立派な軍人になるべく戦争に行ったらあえなく負けて、復員したは良いけどシャバではタダの役立たずの失業者、ジゴロに身を落とすしかなくなって色々あって…というお話です。ジゴロって聞くと、あの映画のイメージになってしまうわ。

あの映画のディートリヒは、異界の人だった。すでに外見も声も老女だけど、だからこそあの歌声は、影そのものだった。

グランドホテルで個人的に注目していたのは、ジゴロだったんです。「ジャスト・ア・ジゴロ」のことか私の頭の中にあったもので。当時、職にあぶれた元軍人がジゴロに身を落としたと言われています。敗戦によってジゴロになった人は、ちょっとネガティブな意味で特別な存在だったのでしょう。シャバでは生きていけない人です。元々社会人として働いていて徴兵された人は、復員後は日常に戻るんです。多少世の中が混乱していようと、ネクタイ締めて会社に行って、子供の扶養義務を果たして年取って死ぬだけです。でも、鉄砲の持ち方しか知らない職業軍人、特に若くて世の中のことを何も知らない人はそうもいきません。そして映画の中のボウイのように、ジゴロになるしか道がなかった人もいる。ある意味で、「ジャスト・ア・ジゴロ」のボウイと、本作の男爵とジゴロは表裏一体です。

本作のジゴロについて、観劇前に色々想像していましたが、実際に観てみると、なんとなく、あれはもはや人ではないものというか、幻のように思えました。だってさ、ホテルの誰ひとり、彼を気にも留めていないじゃないか。スタッフも、ドアマンも、運転手も、軍人も、娼婦も、ヘル・ドクトルも。人々が出ていく朝も、人々で満ちる夜も。タイルに染み入るように、彼が消えていっても、誰も彼を覚えていない。ただホテルを漂う、ワイマール共和国から忘れ去られた人の幻。そして目明きの人々は、誰ひとり彼を見ていないのに、盲目の伯爵婦人だけには、彼が見えている。金だけの関係とも愛しているとも言えない、なんとも現実感のない世界です。すでにこの世ではなく、かといって天国でも地獄でもない空間。いわゆる西洋のLIMBOの概念に近いというか、彼らがLIMBOに棲んでいながら、自らLIMBOを生んでいるというか。

そこに片足突っ込んでるのが男爵で、だから、なんだかんだジゴロを意識した言葉を発していたのではないかと思えます。ゆりちゃんを指しての「ジゴロじゃない」という発言だったのか、広義のジゴロを指しての発言だったのかは計りかねますが。男爵にとってのジゴロってのは、元気にこの世を生きている存在じゃなくて、出来ればそうなりたくない存在なのは理解できます。それも、映画と同じく、かつて自分と同じく軍人だったものが身を落としているとなれば、なおのこと目を背けたいよな。

もしかしたら、ホテル自体も一種の異界で、ジゴロのLIMBOと紙一重かもしれません。ホテルの客も、スタッフも、ホテルに住んでるわけじゃない。ホテルに長逗留したからって、シャバのうざい町内会の役員の順番とか回ってこないし。回覧板を回す必要もないし。つまりホテルの中に人生はない。長い間ホテルを出ない人々も、あくまで「長期滞在者」であって、住民じゃない。逆に、男爵のように帰るあてなく異界に留まり続けたら、無自覚のままLIMBOとの境界がどんどん薄くなっていく。まるでジゴロのように。エリザヴェッタに恋をして、かわいそうなオットーと友達になって、世界が色づいて異界から抜けられそうになったとたんに、そのまま永久にホテルに滞在し続けることになったけど。

もちろん、ジゴロがこの世のものではない、とか、幻だとか、LIMBOに居る、等という公式設定は無いです。私の勝手な解釈です。当人もそんな風に役を作り込んだわけじゃなさそうだし。単に主役を男爵に変更したら男爵自身が死のボレロを踊ることになって、おおっぴらに目立つシーンが減ったら偶然「人の世にあらざるもの」っぽくなっちゃった、たぶん回答はそれだけでしょう。それでも良いのさ。恐らく初演のジゴロの存在感は違うのでしょうが、本作は本作で良いと思います。ぶっちゃけ照明さんの良い仕事に騙されてる気もするけど、どうせもう見れないから喜んで一生騙され続けてやるぜ。

ここまで書いといて、ジゴロの「人の世にあらざるもの」感をさらに強調してるのが。劇団の公式刊行物に劇中の彼の姿がまるで残ってないんですよ。舞台写真はもちろん、プログラム、宝塚グラフ、歌劇、ル・サンクと一通り見たけど。メインで写らないだけならまだしも、モブとしてさえ写ってない。それらしいのは心霊写真以下で同定不可能です。間違いなくホテルにいて、あれだけ舞台上にいて、人々の間をぬって躍ってたのに。花持ってたりしたのに。役の大きさと、中の人のタカラヅカの番手的な序列を考えると、そりゃ最上位じゃないにせよ、一切姿が残らないほど下の立場とは思えないし。やっぱり幻だったような気がするんだ。

まぁなんだね、「グランドホテル」を時代背景含めて気に入った人になら、「ジャスト・ア・ジゴロ」は結構オススメできます。

「私がユダヤ人だから」のセリフ追加は、あれだけは不要だった。差別があったことを宿泊拒否の理由にすれば、確かに芝居としては話が分かりやすくなるかもしれないけどさ。差別が原因だったら被差別者が激おこで人前で自分が何者か声高に叫ぶものかよ。しかもオットーそういう行動をとる性格じゃなさそうだし。

私は、自分の好みに合わないことを一点も許せないほど高尚な人ではないけど、本当にこれだけは惜しまれます。むろん、許可をとって行われた改変であることは理解してます。

ナチスの持ち込んだユダヤ人差別と、古来からのユダヤ人差別ってのは、似てるようでかなり違うものです。どっちも良いことではないけど。世界のいろんな国で、差別は強くなったり弱くなったり変遷を重ねてきた。この時代は、というかワイマール憲法下ではユダヤ人の保護は比較的厚くて、ベルリンへのユダヤ人の流入が多かった時代です。そして1928年は、ナチスは影響力を高めつつも、まだ政権をとってない。というか、共産党ドイツ社会民主党もその他の政党も、突撃隊と大差ないガラ悪い武装組織を持って町を練り歩いていたんだ。でさ、赤色戦線の制服って、だっせーの。

でも、宗教上の理由でユダヤ人を差別している他国の人が、ナチスに追われたユダヤ人を助けるはずがないんだ。これはまた後の時代の話。あれは本当に起こったことで、1928年から地続きだけど、もうちょっとだけ後の話なんだ。

1928年は、書くと長くなるのでものすごく乱暴に結論するけど、裕福で「身なりの良い」ユダヤ人は、未だグランドホテルの客になれる時代です。もちろん、支配人をはじめとするホテルのスタッフ個々が持ってる偏見とは、また別の話。というかホテルのスタッフにもユダヤ人の一人や二人は居るでしょうよ。プライジングさんとこの社員にも、ライバル社にも、男爵の戦友にも、ヘル・ドクトルの同業者にも。そして、オットーと一緒にパリに行く人も。

東京千秋楽になろうって今なに書いてるんだよ。

って言われるかもしれませんが。だってツイッターとかしてませんし。一回しか生で見れなかったのにデケェ口叩くのはとてつもなく恥ずかしくて、今の今まで悩んだんです。ほら、誰だって、大して見てもないのにスカステの映像だけでゴタク並べる人のブログを読んで恐ろしい思いをしたことの一度や二度はあるでしょう。私もあります。でも、グランドホテルは円盤化できそうにないし、内容を忘れるのも嫌だから書き残します。ごめん。

劇中の歌詞から考えたら、男爵は間違いなく戦争に行ってるはずだけど、1928年の時点で29歳…と、29ヵ月。29ヵ月のほうは相手に合わせて逆サバ読んだ感じなので、29歳として。終戦時に19歳では、男爵若すぎませんか?という疑問について。時々不思議に思われる方がいるようで。指摘はもっともです。確かに敗戦は1918年。ほんの10年前です。敗戦の時点で男爵が19歳ならば、徴兵年齢に達していません。つまり、男爵は徴兵対象者として従軍した人ではありません。プロの軍人です。

男爵の年齢が若すぎるので、設定の誤りなのかといえば、そうではありません。男爵は、ご身分柄幼年学校上がりの若年士官だったのでしょう。軍事大国プロイセンの幼年学校は、男爵のような貴族だとか良家の子弟が、紳士に、そして高位の軍人になるべく教育を受けるところです。そのへんの家の子が希望して入学出来るところではありません。日本でいえば、小学校高学年くらいの年齢で、幼年学校に入学します。そして、だいたい18歳の若さで少尉殿になるので、着任後1年くらい戦地を駆け回って終戦を迎えたら、劇中の時間の流れの通りとなります。一切矛盾なし、良く出来てます。まぁでも早いわ。日本軍の場合は制度がコロコロ変わってますが、よっぽど早くて21歳でなかったか。私は軍オタでないのであんまり自信ないけど。

そして男爵は、敗戦後の軍解体・軍縮で将来設計が狂って除隊されたのでしょうが。なんせ軍隊内でさえ従卒がついていたであろう身分のボンボンです。仕事といえばお馬さんの乗り方と鉄砲の持ち方しか知らん人が、シャバで地に足つけた仕事なんて出来るわけないんだぜ。紳士、そして軍人になる教育は受けていても、文官になる教育は受けていません。民間起業で働こうにも、伝票も書けなきゃタイピングもできません。まさに、ヘル・ドクトルが言う「金の無い貴族ほど使えないものはない」ってヤツです。もしかしたら投機の才能、というか博才はあったのかもしれませんが、地に足つけて生きてるとは言わないでしょうよ。戦後10年食い繋いだだけで立派なもんです。

平時に於いても、高いご身分の人は、収入が多くても同時に出ていくお金も多くて案外カツカツです。そして、プロイセンでは、19世紀末から、経済的に困窮する貴族が増加していました。華やかなのは表面上だけ。さらに敗戦によって、男爵と同様に、お金も行き場もない若年士官が沢山いたわけです(一部の人は、ジゴロになった)。エリザヴェッタは、商売柄上流階級の懐事情を良く知っていたのもあって、だから泥棒だと告白されても動揺しなかったのでしょう。男爵ならお金が必要。運転手云々を抜きにしても、彼女の仰る通りです。貴族の窃盗犯に遭遇したのは初めてでも、金が必要な貴族が窃盗を働くこと自体は、彼女のなかではある意味理解出来ることだったんだ。

一方で、そのへんの事情に疎いのがオットーです。プライジングの会社は、恐らく地方都市の民間企業で、ごくフツーにつましい人生を送ってきて、今まで一度も接したことがなかったであろう男爵様に出会って、まぁ見てるこっちが恥ずかしくなるほど舞い上がっちゃってさ。

オットーは、簿記係というユダヤ人の典型的な職に就いていますが、金融に大きな力を持ち、高位の人と密接に関わってきた、いわゆる宮廷ユダヤ人の家系ではないのでしょう。だから、高い身分の人の実情を知らない。男爵の身分を聞いただけで、人気アイドルに遭遇したかのように舞い上がってたんだ。そんな舞い上がって夢の中にいた病身のおっちゃんが、命より大事な財布を落としたときの男爵の行動で、初めて現実を察する。苦しい息の下で男爵の言い訳に合わせたお互いの優しい嘘。本当の友達になってすぐに訪れるサヨナラ。良い話です。オットーってば、だっさくて卑屈でもうすぐ死ぬけど、優しいよね。

まぁなんだ、軍隊上がりのあのマッシブな美丈夫の男爵がさぁ、中年太りのシャッチョさんと揉み合いになったってフツーに素手で勝てそうというか珠城氏なら銃弾だって跳ね返しそうな気もするさ。でも動揺してたんでしょう。これがオットーだったらシャッチョさんと揉み合いどころか肩ぶつかっただけで死んでますねたぶん。